物語に「動かされない存在」
今私は奈良の山奥に滞在している。ここ数ヶ月よく鹿に出会う。家に向かう道端で雌鹿の親子に出会い、家の裏庭では鹿が声高々に鳴いていて神秘的だった。
先日、奈良公園に行った際にも色んな鹿に出会ったが、特に印象的だったのは足を怪我した雌鹿とその後ろをついて歩く立派な角を持った雄鹿だ。他の雄鹿と比べて迫力のある存在感を放っているのにも関わらず、雌鹿の後ろにいる時は尻尾を小刻みに振っていて可愛らしい。
繁殖が目的というより、その雌鹿を守っているように見え、そしてそのことがまるで法悦であるようにすら見えた。
まるで彼らの物語の中にいるような、そんな気分にさせてくれる。理想の姿だった。
今日本では10代などの子供の女の子の自殺者が激増している。性犯罪の増加と比例しており主な元凶だと示唆されている。それらを踏まえても、人間、とくに日本の男どもは鹿以下、動物以下の存在なのではないかと思えてくる。
なぜこのような事態が起こるのか。なぜこんな平和な時代に女、そして守られているはずの子供までもが性加害に怯え、死んでいかなくてはならないのか。
以前、『誰もが一つのストーリーによって動かされている』という文章を書いた。
誰もがあるひとつの物語によって動かされている一部でしかない、と。
ロマンやヒーロー物語、そういった日本の作品によくあるストーリーも私たちを文脈化し包括している。自分の人生に整合性が取れる作品は売れる。「人々を動かしている物語」が求めているものがヒットする。
その中で、物語に「動かされない存在」がいる。
その存在のひとつが、性被害や性虐待を受けてきた女子供たちだ。
多くの人々の人生に整合性が取れるものはヒットし、話題になり、大衆の心を動かしうるが、このような存在についての作品は、センシティブだから、表現がしにくいから、売れないからと、物語にすらされない。社会が隠したいもの、権力が触れてほしくないものは、日本では作品にすらできず潰される。せいぜいNHKやひっそりと安い制作費で作られたドキュメンタリーくらいだ。
例えば、フェミニズム映画は日本にほぼない。その上、海外の映画のタイトルをチープな表題にし意味を変えたり、社会的なメッセージになるような大切なセリフを翻訳で抜き取ったりしている。
ちょうど今日、「安倍元首相銃撃事件」の映画化も中止する方針だというニュースが出た。
誰もが幼いころから自分のストーリーを構築しながら生きているが、おそらく性虐待の記憶は、そこに埋め込まれることを拒んだのだ。異質で恐怖や衝撃に満ちた記憶は、脳によって処理されることを拒む。トラウマとは、そのような記憶のことを指す (中略)
多くの被害者は、その非文脈性を「自分が変な子だったから」「自分が悪い子だったから」という究極の文脈化によって抱え込む。それによって、文脈化できないものはないからだ。しかし、あらゆる経験をそこに詰め込んで文脈化することは、自己否定感、存在の無意味感を同時に発生させる。この感覚は、伏流水のように緩慢な自殺願望として潜在し続ける。
なぜ、日本は作品にすることを拒むのか。ただの物語に権力を行使する必要があるのか。文脈が変わり、記憶が統合され、個々人が自己統治される。社会が変わるからだ。
物語化は気をつけなくては安易なパターン化に堕落しやすい。ただ物語にすらしない、物語の意味を変える行為は、ある問題をなかったことにする。いる存在をいなかったことにする。救われるはずだった命を殺すことになる。
最近、私の好きな攻殻機動隊の最新作が出た。1話観てやめた。まるで素子がラムちゃんのような存在になっていた。下品でまるでアニメオタク向けのようなキャラや描写になっていた。この大きな変更にも何か皮肉や意図があるのだと思うが、作者の諦めが見えて不安になった。
日本のNetflixのランキングはいつもオタク向けアニメやよくわからない恋愛ドキュメンタリーが多く、海外とは意識がまるで違う。久しぶりにSNSを見てみても、諦めの空気をひしひしと感じる。
諦めているのだろうか。それとも、眠っているのだろうか。
あなたは作り続けてほしい。自分の作品を、物語を、生きる意味を、自分を。
自己の統合が、非言語的な外傷的記憶(トラウマ)によって阻害される。しかしその記憶には、どこかエネルギーが感じられる。生きる過程で人格は統合されているほうが安定して生きやすい。外傷的記憶のもつエネルギーは、統合への欲求と呼べるかもしれない。
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