「死にたい」と「死んでもいい」は似て非なるもの
先日久しぶりに「死にたい」という感情がやってきた。
死にたいという希死念慮はネガティブに捉えられがちだし、周りの人も心配するけど、死にたいっていう気持ちは自然と湧いてくるものだ。
それは息を自然とするように、ある一定のリズムでやってくる。
昔はダメだなんでこんなこと考えちゃうんだってさらに自分を追い詰めていた。それが追い討ちをかけて、やっぱり死にたい死ぬしかないという泥沼にはまっていってしまう。
今はリズムが遅くなり、めったに死にたいと思わなくなったけど、久しぶりに感じた「死にたい」という感覚に少し懐かしい気持ちにもなった。
もちろんしんどい気持ちになるけれど、なんの理由もなくただ死にたいと思ってしまうのは、自然発生的なものであって、そこまで深く考えなくてもいいと考えている。
ただ、死にたいと思ってる自分がいることをしっかり見つめる。
ダメだ考えちゃダメだって思えば思うほど、自分を責めれば責めるほど、その気持ちは膨れ上がっていく。
その気持ちは「死にたい」から「助けて」に変わっていく。
過去の私がそうだったように、その場合はきっと、「死にたい」よりも「助けて」というのが本来の目的なのだろう。
本当は死にたいのではなく、生きたいのだ。
そのきっかけとして助けてくれる「誰か」や「何か」を求めているのだと。
ただ、生きたいではなく冷静に「死にたい」方の気持ちを感じていると、自分では気づかなかった自分がいたり、無理していた自分がいたり、本当はこうしたかったっていう自分がいたり、いろいろ見えてなかった自分がいることに気づく。
何かがはっきりと見えるわけじゃないけど、昔はただ恐ろしかった希死念慮は、いま大切な何かを無視して生きてたことを教えてくれる指標になった。
流されてズレていた舵を切るきっかけになっている。
死にたいと思うことは悪いことじゃないし、元気な時以上に世界を繊細に詳細に捉えることができ、見落としていたものも見えてきたりする。
外が怖くなったり、うまく笑顔が作れなかったりするけど、べつに自分に嘘ついて上手に笑う必要もない。愛想を振り撒く必要だってない。
ただ気持ちを大切にしてやればいい。
しかしそこは軸をもっていないと「死にたい」(自分)を大事にできないから自分軸は大切なんだ。
それから、「死にたい」を「死んでもいいや」という感情に持っていくのも私の大切な処世術になっている。
これはネガティブな意味合いではなく、もっと開放的な、世界をもっと胸をはって生きていくための“おまじない”みたいなもの。
人は自分を守ろうとするから、他人が怖くなったり失敗が怖くなったりする。だけど、死んでもいいやと思うことによって、恐怖が薄れてちゃんと生きられるようになる。自分自身をおもいっきり出せるようになる。
すると不思議なことに、他人も街も世界もまったく怖いものじゃなく、すべてが味方のように思えてくる。
自分を守ってしまうから、まわりに敵がいるように思えて、外が恐ろしくなり、本当に敵を作ってしまうのかもしれない。
ただちゃんと生きて胸をはって生きられたら、すべてが味方のように思えて、安心して、心強くなってくる。
希死念慮が起こったら、「死にたい自分」をしっかり感じてあげて。ちょっと不安な時や怖い時は、死んでもいいやっておまじないを使ってみてほしい。
ps
最後にもう一つ。死にたいという感情は「ひとつになりたい」欲求でもあると私は考えている。
これは性的な意味も、精神的な意味もある。
もともと生まれる前は母親の中でひとつだった存在が、生まれてからふたつになってしまった。
その生まれる前の「ひとつ」への欲求であり、ノスタルジーなのだと。
だから人は「ひとつになりたい(死にたい)」と思うと、破壊的なセックスや恋愛に走りやすい。だけど、そんな時は決まって幸福感ではなく虚無感や罪悪感が襲ってくる。
人がひとつになる方法は「死」か「セックス」しかない。ただ、その方法が破壊的か建設的か、はしっかり立ち止まって自分で選ばなくてはいけない。それが恋と愛の違いなのかもしれない。
「死にたい」という希死念慮がやってきた時。私は「今ひとつになりたいのか」と思うと、そんな自分がすこし可愛く思えてくる。
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