いつだって「いい人」が無邪気に刃物を突きつける
わたしは今メキシコにいる。グアテマラからバスで初めて陸路経由の入国したけど、大変すぎたのでもう一生メキシコでバスは乗らないと心に誓った。その話はまた機会があればしたいと思う。
メキシコは落ち着く。去年から今年にかけて約半年間住んでいて馴染みがあるのもあるけど、ここは心身ともにリラックスができる感じがある。
不思議と肌艶もよくなって、よく眠るし、体も元気だ。グアテマラも気候や人がとても親切なのは変わらないが、なぜか体調が優れなかった。
環境によってコンディションがこれほど変わるのだから、やはり人生は環境がすべてだと言えると思う。
今日はとにかくなにか書きたくてこうやって指を動かしているけれど、何を書きたいかまだ決まっていない。
唯一言いたいことは、「いい人になるな」と言うことだ。
ニーチェの人間学を引いた中島義道さんの本にこのようなものがある。
「善人ほど悪い奴はいない」
この言葉を説明するには膨大な情報が必要になるのでここでは書かないが、昨今のSNSの有様を見ていれば読者の方もすこし想像はつくだろう。誹謗中傷で自殺をしていく人たちが大勢いることも、もう知らない人はいない。
自分が不快だったというだけの理由で、まるで悲劇のヒロインのように有名人を叩く人たち。顔を隠した匿名で、まるですべてを知る正義のヒーローかのように誹謗中傷を繰り返す人たち。
自我だけが肥大し、相手にどのような傷を与えているかも想像ができず、ただ無邪気に人に刃物を突きつけている。
こういう人たちの共通する点は、必ず「善人の皮をかぶっている」ということだ。
自分はいい人間である、いいことをしている、と思い混んでいて決して疑わない。
善人は悪に対する免疫が弱いから、ちょっとのことで、「自己欺瞞」とか「自己矛盾」とか「内的葛藤」とか「内なる悪」とかいうような勝手なドラマを作って、話をジトジト内向させてしまう
人を無邪気で無自覚に傷つける人は、悪人の顔をしていない。必ず善人の顔をしている。
例えば私がSNSなどで誰かを批判する時、どれだけ自分が正しいと思える立場であったとしても「自分は悪いことをしている」という自覚を持ってやっている。
どれほど客観的にはいいことだろうと、当事者にとって悪であり、私の言葉は少なからずその人を傷つけるからだ。たとえばこの言葉でその人を殺してしまうかもしれないという想定をしてからやる。
自分は悪だと認めることは、無自覚に、無邪気に、無闇矢鱈に人を傷つけないための唯一の方法だ。
未だ社会でなくならないあらゆる差別や、イジメや、争いも。みんな自分は正しいと信じてやっている。例外なく自分はいい人間だと思っている。
善人の皮を被った人間が、無意識に差別に加担し、イジメを黙認し、争いを引き起こす。
堅い話になってしまったけれど今日私が伝えたいことはたった一つ、
「いい人になろうとしなくていい」ということ。
なぜか日本はいい人を演じることが異常なまでに推奨されていて、主体的に生きるということが悪とされている。社会が要請する「いい人」というのは主体性のない人なのだから。
波風立てずに、全体の空気を読んで、それっぽいことを言う。そういう人がいわゆる「いい人」であり、決して弱者に寄り添っているわけでもなく、自分の意見や意思も持っていない。
そして少しでも自分に不快なことがあれば被害者の皮をかぶって、善人である自分が傷つけられたと大声で喚く。
それが、無邪気に刃物を突きつける善人の本質だ。
「善人=主役」が成り立つ平和な時代には、「主体的に生きる」ということは、「悪」なのである。だからこそ、平和な時代に己れの「内的必然性」というものに目覚めて、行動などというものを起こす青年は、「自分自身の悪」にこっそり気づいて、「罪の意識」を掻き立てるのである。
決していい人になるな。
自分になれ。
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