だから安心して、とことん堕ちろ
メキシコに入国してから3ヶ月が経とうとしている。相変わらずメキシカンは今日も陽気で、笑顔が素敵だ。私はというと、いきなりメキシカンのように陽気になることはない。彼女たちの明るさに影響される部分はあるが、どこまでいっても私はアジア人なんだなとひしひしと感じる。
まず、カルチャーや言語が大きく違うと自分を理解してもらうことはそれだけ難しい。一緒に遊んでくれるような友達ができることはあっても、深い関係になるのは至難の技。言葉のニュアンスや文脈が共有できないため、誤解やすれ違いがあったとしても、話し合いで解決しないことも多い。私はまだ英語を勉強している最中で、スペイン語なんて「desayuno(朝ごはん)」くらいしかわからないから尚更だ。
スペイン語圏のメキシコでは歴然とした言葉の壁がある。言葉の壁を感じた時は言いようもない疎外感を感じたり、相手のことを理解出来ない自分に苛立ちを覚える。言いたいことが言葉で出てこない、伝わらないというのは、とても苦しい。
同じ言語を使う日本人同士ですら、理解し合うのは簡単じゃない。せいぜい相手をわかったつもりになっているか、その場で空気を読んでわかったふりをしているようなもので、同じカルチャー、同じ言語であっても、生きてきた環境も経緯も違う相手を完全に理解するのは不可能に近い。
それでも、相手のことが一生わからなかったとしても「わかりたい」と努力することが、友情や愛や絆に変わっていく。「わからない」その不快感を自分の中で落ち持ち続けることが出来るのが精神的に自立した人あり、その忍耐力が深い繋がりに変わる。
それなのに、人からわかってもらえないとか、こんなに想っているのに伝わらないとか、そういうことで落ち込む人が多いように思う。
簡単に「相手にわかってもらえる」「相手のことがわかる」と思っていること自体が間違いであって、「わかってもらえない」ことが大前提なことを知らないからすぐに落ち込んでしまう。
そうは言っても、私もわかってもらえない悲しみをよく知っているので、日々わかろうとする努力をしている。私のセラピストという仕事はクライアントの苦しみを「わかろう」とする仕事でもある。なので、少しでもわかる範囲が広がるように毎日勉強をしている。当然本人と同じ苦しみは味わえないから完全にわかることは出来ないが、「わかろう」としてくれる人がいるだけで心が救われることがあるからだ。
わかってくれる人じゃなく、自分をわかろうとしてくれる人。社会的な価値観で判断せず、ただわかろうと努力してくれる人。同じ目線に立って、真摯に向き合おうとしてくれる人。
そういう人が一人いるだけで、人生は変わる。
心理学用語の「自己拡張」という言葉は、「他者を自己に内包することによって自己を拡張する」という意味だ。例えば恋人同士は付き合い始め、激しいコミュニケーションのやりとりの中で急激に自己を拡張する。他人であったはずの恋人が、短い期間で自分の一部になっていく。そのため、別れた時は自分を引き裂かれたような壮絶な悲しみと痛みに襲われる。
家族のように大切にしていたペットが死んだ時や、長年連れ添った夫婦が死別した時も、自分の一部を失ったかのような深い強烈な悲しみが襲う。このように、私たちはまわりにいる他者によって自己のアイデンティティを形成している。